第十代崇神天皇の十年、四道将軍を置かれ、大彦命(おおひこのみこと)を北陸に派遣されたとき、「櫂子(かじこ)の軍に従って」都を立ち寧楽山についたとき建埴安彦(たけはにやすひこ)が兵を挙げて都を襲撃しようと企てていることを聞いて直ちに都に引き返し天皇にこのことを御報告し、建埴安彦を討ち果たすことを奏上せられた。
吾田姫(あだひめ)は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので、五十挟芹彦命(いそさせりひこのみこと)を遣わされてこれを討伐された。
一方、大彦命は寧楽山で安彦の本陣と戦い、これを追って和韓川(わからがわ)の南で川を挟んで対陣していたとき、「櫂子の」射放った矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので、賊軍はついに降伏して平定された。 「天皇は大いに櫂子の戦功を称え、天磐笛と笛吹連(ふえふきのむらじ)の姓を賜った。」天香山命を奉り、櫂子の子孫がこの土地に住んで祖先の神霊に奉仕しその地の人々を化育し、この地を笛吹と唱え、その氏神としてこの神社を笛吹神社と申し上げた。
この笛吹の部族は大化の前から鼓吹戸(ふえふきのと)という品部(ともべ)の中で笛吹と呼ばれた人々が居住していた根拠地の一つだったと考えられる。
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